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高島・端島世界遺産概要

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PROLOGUE プロローグ

 

日本の開国後、外国の蒸気船の燃料として石炭の需要が高まったことを受け、スコットランド出身の貿易商トーマス・ブレーク・グラバーは佐賀藩と共に、長崎港外に浮かぶ高島で炭鉱の開発を開始しました。
高島炭坑で培われた優れた技術は、端島炭坑をはじめ、国内の他の炭鉱にも波及していき、高島炭坑で採炭される良質な石炭とともに、日本の近代化を支える大きな原動力となっていきます。

炭鉱・・・ 石炭を掘り出す区画(山、海底など)の一まとまり
炭坑・・・ 石炭を掘り出すための穴。地上から垂直に掘られた穴は、「竪坑」、水平に掘られた穴は「横坑」と呼ばれる
トーマス・ブレーク・グラバー

 

 

国内近代炭坑発祥の島、高島

高島炭坑

長崎半島の西沖合に位置する高島では、18世紀頃から採炭事業が始まりました。
1868年、佐賀藩とグラバー商会は高島炭坑開発の共同経営を開始し、英国人技師モーリスを招き、日本最初の蒸気機関による竪坑を高島に開坑しました。翌1869年に深さ43mで着炭し、北渓井坑(ほっけいせいこう)と命名されました。
西洋の最新技術と機械が導入され、日本最初の蒸気機関によって海底炭田を掘る近代炭坑として誕生した北渓井坑は、日に300トンの出炭量を記録したとされますが、1876年海水の浸入により廃坑となりました。しかし、この旧来の技術を一新した石炭生産技術は、その後、端島炭坑や三池炭鉱に伝わり、わが国の炭鉱開発につながっていきました。

高島炭坑の詳細はこちら

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かつて、多くの人々が端島に夢を追い求めた。

端島は長崎港から南西約18kmの海上に浮かぶ小さな島です。本来南北約320m、東西約120mの岩礁の島でしたが、本格的な近代炭坑としての開発が進み、炭鉱の発展とともに島周囲が段階的に埋め立てられ、南北に480m、東西に160m、面積にして約3倍の広さに拡張されました。最盛期には5千人を越す人たちが生活しており、当時の東京都区部の9倍もの人口密度に達しました。高い護岸で囲まれ、煙突から煙を吐くその外観が軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。
端島は、海底を採掘するため、地下に遥かに巨大で複雑な坑道が掘られ、地下約1,000mの深さまで掘り進められました。良質の製鉄用原料炭を産出する海底炭鉱の島として、わが国の近代工業を支えてきた炭坑でした。
しかし、石炭の島として一時代を築いた後、昭和30年代後半からエネルギー革命の影響を受け、1974年閉山、同年4月に無人島となりました。

端島

端島炭坑の詳細はこちら

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